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  • 2009.02.19 Thursday
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青春の日々

思い出の試合◆ 2003.11.2 有明コロシアム
 グレート・サスケvsスペル・デルフィン

みちのくプロレスが旗揚げしてちょうど1年くらい経った頃、プロレス観戦仲間のM君と「一度みちのくを見に東北へ行こう」という話になった。
当時はみちプロが東京で興行を打つことはほとんどなく、唯一行われた後楽園大会(プロモーターが売上金を持ち逃げした伝説の大会)はチケットが買えなかったため、では“密行”するか、ということになったのだ。
金はないが時間だけは山ほどあった十八歳の春のことだ。
M君と私は新宿の金券ショップで「青春18きっぷ」を二人で購入し、それを分け合って上野から東北方面へ向かう鈍行を乗り継いでいった。
宇都宮で乗り換え、黒磯で乗り換え、郡山で乗り換え、もう名前も忘れた福島県内の小さな駅で我々は下車した。
新宿を出たのは朝の9時ごろだったにもかかわらず、着いた頃はもう夕方近かった。
その駅で電車を降りたのはあか抜けない地元の中高生と大きな荷物を背負ったバアさんばかりで、我々はあからさまに異分子だった。
「なあM、本当にここの駅でいいのかよ」
Mも言われて困ったに違いない。
何しろ彼が頼った情報源は「週刊プロレス」の「観戦ガイド」というページに書かれていた、

「みちのく福島大会 3/27 ○○町民体育館 ・・・磐越西線●●駅から徒歩15分」

の一行だけであったのだから。

我々は駅のそばの小さな民宿を見つけ、山に囲まれた静かな田舎道をMと二人で15分ほど歩くと、小さな体育館の入り口に「みちのくプロレス会場」という看板が出ていた。
そしてその看板の近くで、子供たちに囲まれているスーツ姿のマスクマンがいた。
子供たちは「ねーねーなんでマスクかぶってるのぉ?」などと聞きながらそのマスクマンをベタベタ触ったり押したりしている。
マスクマンは子供たちとじゃれ合いながら「君はどっから来たの?○○町?あーそう」「君はどっから?××町?え、そりゃ遠くからありがとうね」と声をかけていたが、そばに我々が立っていることに気が付くと「あ、サインですか。しましょうか?」と声をかけてきた。
「どこから来たんですか?」
「東京です」
「え、またまたあ。○○町あたりですか?」
「いや、本当に東京から来ました。みちのくプロレスを見に」
「やだなあ、あーわかった、スキーのついででしょ?××スキー場に寄った帰り道とか」
のちにUFOがどうだとか、予言がどうだとか、そういうことを言い出した彼と、この珍妙な受け答えをしていた彼の姿は私の中でまったくつながっている。
この日、彼はメインイベントに出場すると自分たちは東北の町や村を回っている、東北にプロレスを、ルチャを根付かせたい、どうか応援してください、ということをマイクで切々と語った。
まるで選挙演説だな、と思ったがまさかその10年後に本当に選挙に出るとはその時は思いもしなかった。
そして来月東京でJ-CUPというジュニアの大会があり、自分も出る、みちのくプロレスのために絶対勝ちます!と力強く語った。
誰かが「いいぞーサスケー」というとそちらを向いて「オーケー、ありがとう」、「応援してるぞー」といえば「オーケー、ありがとう」と律儀に返答した。
私が「ライガーに勝て!」と声をかけると私の方を向いて「オーケーわかった、ありがとう」と手を上げた。
とはいえ私はこの東北の気のいいアンちゃんがあの獣神サンダーライガーに勝つとは夢の夢にも思っていなかった。
だからこの1ヵ月後、両国国技館でこのアンちゃんが本当にライガーに勝ってしまったのを目の前で見たとき、目頭が熱くなるのを自覚しながら奇跡とはこういうことをいうのかもしれない、と本当に思った。
あれが、すべての始まりだった。

それから今に至るまで、何回東北へ足を運んだだろう。

大仁田厚との東北初の電流爆破マッチ。
大仁田に触発されたのか何なのか、引退するとかしないとか言ってたっけ。

ふく面ワールドリーグ戦、激勝したデルフィン戦。
「おまえらになー、見せてやるよ。こんな東北のちっぽけな小僧でもよ、世界一になれるってことをよ」という試合後のマイクに本気で泣いてた人がいたっけ。

真夏のニューワールド仙台。
会場まで行ったらサスケが欠場と聞いてガックリしたっけ。

春の秋田テルサ。
サスケを応援してたら海援隊がすぐそばまでやってきて怖かったなあ。

秋、会津若松の小さな会場。
ニューヨークに行ってたはずのTAKAみちのくが緊急参戦してきて興奮したなあ。


自分の青春がどこにあったかと聞かれてもすぐにはわからない。
けど、少なくとも何かが東北にはあった気がする。
その何かは、99年1月のデルフィンらの大量離脱で霧散した。
もう私の愛したみちのくプロレスは戻ってこない、私の青春はこれで終わった。
あの時は本気でそう思った。

だから、2003年秋、みちのくプロレス10周年記念大会でサスケとデルフィンを戦わせたいという新崎人生の考えは、あまりに突拍子もない言動に思えた。
ファンから見てそう思うくらいだから、選手は言わずもがなだっただろう。
しかし、人生は嫌悪感を示したデルフィンを説得するため大阪までたびたび出向き、リング外のみならずリング上でも頭を下げ続け、最後は土下座までしてデルフィンに「わかった、やるから頭を上げろ」と言わせた。
正直、土下座はあざといと思った。
だがあざといのを承知であそこまでした、人生のサスケvsデルフィンに対する思いはこちらを圧倒した。
デルフィンからはかろうじてOKをとったものの、今度はサスケが拒否反応を示した。
すると人生は仙台の観客の前で、過去の思い出話をうまく織り交ぜながらサスケに記念大会でデルフィンと戦う意味を説いた。
それでも首をタテに振らないサスケ。
すると、仙台の会場にいた観客がみな直接サスケを説得し始め、ついにはサスケも折れた。
一人ならともかく、何十人の観客がみなでサスケを説得したのだ。
プロレスは本当に、“ガチンコの奇跡”で出来ているのだとつくづく思わされた。


2003年11月2日、有明コロシアムのリングサイドで私はこの試合を見た。
だけど試合内容はまるで覚えていない。
覚えているのは、もう絶対みちのくの会場で聞くことはありえないと思っていたスペル・デルフィンのテーマ曲が流れて、一夜限りの復活を果たした篠塚誠一郎リングアナが
10年前と同じように「セニョ〜ルペルフェクト、スペル、デルフィーン」と呼び込んだ時に、ボロボロ涙が出てきて止まらなかったことだけで。
プロレスには、いや、人生にはこんなことがあるんだと、教えられた一戦だった。

もしいつか私が年老いて、もう余命いくばくもなく、病院のベッドで今わの際に一試合だけプロレスの試合をビデオで見せてもらえるとしたら、迷わずこの試合を見せてもらうだろう。
これから何十年たち、その間どこでどんな試合があっても、きっとこの試合を見たいと思うことだろう。

サスケが提唱した、みちのく50年計画が完遂するのは2043年。
72歳になったザ・グレート・サスケがリングに上がるのを、68歳になった私はリングサイドで見ることができるだろうか。
そのとき私は覚えているだろうか。
初めて東北に行った日のことを。
初めてサスケと話した時のことを。

忘れていたら、誰か流してくれないか。
あの「みちのくプロレスのテーマ」を。


青春の後ろ姿を人はみな忘れてしまう 〜6.20みちのくプロレス後楽園大会観戦記

みちのくプロレスは不思議な団体である。
ファンを夢中にさせた選手が次から次に去っていくにもかかわらず、気がつけば別の選手がその穴を埋めている。
そんなことを繰り返す一方で、かつて砂をかけて出て行った選手の出戻りを受け入れたりする。

そんな故郷のような温かさを持つかの団体は、今年で創立15周年を迎えた。
それを記念して行われた「ノスタルジックツアー」は、かつてみちプロで一時代を築いた選手が集結して懐かしい試合を見せるというのがメインコンセプト。
後楽園は超満員。
が、観客の顔を見れば30代〜40代のおっさんばかり。
みちのくプロレスのノスタルジーは彼ら自身の青春ノスタルジーでもある。

すっかり世代も選手も様変わりした今のみちのくだが、今日ばかりは次から次に懐かしい顔が出てくる。
リングアナは赤いネクタイの篠塚誠一郎。
レフリーはテッド・タナベ。
つぼ原人vs珍念。
勢ぞろいしたデルフィン軍団。
浪花、珍念、おまえたち今普段は何やってんだ。
久々に見たのに変わらないグラン浜田にマッチョ・パンプ。
もう何度目のリバイバルだろう、海援隊☆DX。
そしてSASUKE組。

私はSASUKEに対していまだ複雑な感情を持っている。
SASUKEの暴走がもとで起きた99年1月のデルフィンを始めとした大量離脱、いやみちのくプロレス分裂劇はまぎれもなくみちのくプロレス15年の歴史の中で最大の悲劇だった。
自身のプライベートを暴露され激怒するデルフィンに対し「俺たちはプロレスラーだよ!俺たちにはプライベートなんかありゃしないんだよ!」とSASUKEは怒鳴った。
盛り上げるためにはどちらが正しいかなんてどうでもよかった。
私たちはただ、二人がリングで熱い試合をしてくれればそれでよかった。
虚と実、ガチとヤオの間をたゆたうプロレスにあってSASUKE、いやサスケの虚はデルフィンの実であり、デルフィンの虚はサスケの実であったのだろう。
「みちプロを盛り上げるために」という同じ思いをもって行動したはずの二人は結果的に真逆の方向に走り出し、気がついたときに二人の間には埋めようもない距離ができていた。
離脱記者会見場で「もう二度とみちのくのリングに上がらないってことか!」と気色ばむサスケに視線を合わせないまま「そういうことだ」と答えたデルフィンの涙腺は決壊寸前だったのに、直後号泣したのはサスケの方だった。
泣き崩れるサスケを同じく不仲説が言われていたテッド・タナベが介抱する、あの場面を思い出すだけで今でも胸の奥がチクチクする。
SASUKEは私が愛したみちのくプロレスを一度は叩き壊した張本人である。
あれからずいぶん時間が経ったが、私はあの青マスクを見るといまだ腹立たしいような胸がつまるような、そんな感情が今でも沸きあがってくる。

復活SASUKE組には望月成晃が入っていた。
当時SASUKE組の主なメンバーはサスケ・ザ・グレートとクレイジーMAXで、望月はオマケのような扱いだった記憶があるのだがこの日リングに上がった中では一番風格があった。
これは対戦相手の海援隊にしても同様で、当時一番下だった獅龍が今では一番上のように見える。
10年という月日はそれだけいろんなものを変える時間である。


試合はみな一生懸命やっていた。
懐かしいムーブも多々あった。
しかし、一生懸命やることと、ベストのパフォーマンスができることは別である。
ブランクはどうしても変な間を生み、かつてはピシッピシッと決まっていた動きが同じようには決まらない。
仕方ないさ。
今は一緒にやってないんだし。
みんな年をとったんだし。
この15年の歴史に少なからずコミットして消えていった、懐かしくも思い出深い選手が次から次へ登場する様を見ながら、”走馬灯のように”というのはこういう感覚だろうか、と考えていた。
不吉な表現かもしれない。
けれど、ここまで徹底して後ろを向いた興行を見るに目の前のリングが銀幕のエンドロールと重なったことだけは否定できない。

家に帰って、売店で買った「みちのくプロレス ノスタルジック15年史」というDVDを少しだけ見た。
「1993年、東北に初めてプロレス団体が誕生します!」と宣言するサスケの声は今よりいくぶん高い。
東郷いやSato、TAKA、テリー・ボーイ、人生、みんなまだ兄ちゃんだった。
彼らは何もなかった。
何も無かったからこそ、毎日できることを必死で続けた。
そして彼らは他のどこにもない、素晴らしい空間を作り上げることができた。
若者は何もないからこそ、新しいものを作れるのかもしれない。
当時二十代前半の坊やだった彼らは、今や不惑を迎えようかとする中年である。
十八歳だった私は、来月三十四歳になろうとしている。
誰もあの頃には戻れない。

液状化するプロと一般の垣根


大日本プロレスがシェイクスピアの「リア王」を演じるらしい。

http://www.kamipro.com/news/?id=1211549029

リングと舞台を用意し、ストーリーに沿った形で試合も行うというが、一体どういう風になるのだろう。
しかも登坂部長が「大日本13年の歴史を散りばめながら」と言っている。
グレート小鹿社長がリア王役というからには、王を裏切る二人の子供(原作では娘)は松永光弘と本間朋晃なんだろうか。
本屋プロレス並みに中身の読めない興行である。

で、このニュースでもうひとつ驚いたのは大日本プロレスが“興行権を一般ファンに福袋で売っていた”ことである。
調べてみるともう一人興行権を買われた方がいて、約10年前の『デスマッチ新世代』のメンバー中心による興行を予定しているらしい。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080524-00000023-spnavi-fight

ここでも登場の登坂部長は「観戦だけでない参加する楽しさをより多くの人に知ってもらいたい」とコメントしている。

インターネットが発達したこの10年、様々な分野でプロと素人の垣根は液状化し、かつて厳然と存在した壁が崩れてフラットな関係が生まれるようになった。
専門マスコミだけの特権であった「プロレスを『伝える』『取材する』」行為はデジカメとブログさえあれば誰にでも可能な行為となった。
さらには次々と生まれるローカルインディー団体の跋扈によって、ちょっとした小銭と行動力さえあれば誰でもリングに上がることが可能になった。
そしてついに、興行を打つことすら液状化しつつある。

こうして見ると隆盛とか衰退といった評価は抜きにして、間違いなくプロレスというジャンルは次のステージに進んだ。
かつてアントニオ猪木があれほど渇望した「市民権」は、もしかしたらもうとっくに獲得しているのかもしれない。


しかし、シェイクスピア演劇をリングで上演するのに一番ふさわしい団体はドラゴンゲートではないだろうか。
リア王をウルティモ・ドラゴン、二人の子供をマグナムTOKYOとCIMA、そして三番目の子供をミラノコレクションA.T.、いや近藤修司がやったら…毒が強すぎるか。

先日5〜6年ぶりにプロレステーマ曲CDをいそいそとパソコンで編集したりしたのだが、やってるうちに猛烈に「闘龍門JAPAN」の試合が見たくなって、押入れの中から闘龍門最終興行である2004.7.4の神戸ワールド大会のビデオを引っ張り出してみた。

当時はメイン終了後の所属全選手に対して一人ずつコメントを連ねていくCIMAのマイクに感動しただけだったが、今見返してみるとあのマイクに号泣している選手は全員ドラゴンゲートに残った選手であり、その後同団体を離れていく選手はなんとなく複雑な顔で聞いていたことに気がついた。

歴史的事件というのは時間を経て再見するとまったく違う面が見えてくる。
ウルティモ・ドラゴン、TARU、ミラノコレクションA.T.、近藤修司たちが「闘龍門JAPAN」を歴史として語れる日は近いのだろうか。

変革のためのチキンレース〜5.6「マッスルハウス6」観戦記

サムライで「マッスルハウス6」が放映されたので見る。
今回は4月上旬に入院して大会直前に現場に戻ってきた、マッスル坂井の不在についてをテーマにするのだろうと思っていたら、爆笑レッドカーペットだった。いやはや。

マッスルはプロレスか演劇かという不毛なカテゴライズ論争があるようだが、鈴木みのるも高山善廣もウルティモ・ドラゴンも出た以上、どっちであろうと現代プロレスの最前線に来てしまったのは間違いない。
といったところで今回は最後の最後に大サプライズとして蝶野正洋が登場して「おい責任者は誰だ!こんなもんやめろ!」と恫喝し、完全に委縮した坂井があっけなく「はい」と認めてしまうことで、会場からは笑いと驚きと困惑と反発が同時に発生するという、世にも珍しい反応が生まれた。

これはすごかった。
これは普通できない。
蝶野の様子と、メジャー団体と呼ばれる既存組織がマッスルに対して思うであろうことを想像すれば、この恫喝が演劇を超えたリアルそのものであることに誰一人疑いは持たないはずだ。
ひと昔前に数多くのヒールレスラーが「この団体をブッ潰してやる!」というセンテンスを使ったものだが、ここまでリアリティある、いやリアルそのものである宣言は見たことがない。
私も含めて、観客は明らかにヤオとガチの向こう側に連れて行かれた。

しかし、この後が余計だった。
観客は蝶野がダウンする坂井の背中に「nMo」と書くことで「あれ?やっぱり蝶野はマッスルの世界に入ったのか」とホッとしてしまった。
今回、「マッスル」スタート以来初めてとなる“to be continued”のエンディングとなったわけだが、次回以降の観客の視座を考えた場合、この緊張は持続させてほしかった。
緊張がないと緩和は生きないのだから。

けれど「マッスル」は、本当だったら10年でやるものを1年でやっちゃってる。
生き急ぎ過ぎというか、ここまで来てしまったら残されたものもそんなになくなってしまうんじゃないかと余計な心配をしてしまう。
まあ、こうして伝説になっていくのだろうな。

本来「冷蔵庫の残り物でも何かしら活用があるでしょうが!!」的叫びから始まった「マッスル」は今や業界の変革そのものを体現する、最先端のグルメ店としての扱いを受けるようになってしまった。
特に今回もそうだが、「ハウス」は特別ゲストがないと何か損したような感覚すら抱くようになってきているのが現状だ。

その意味で今回の「レッドカーペット」は久々にマッスルらしいイベントだった気がしてならない。
個人的にはBIMAとアンソニー・W・大家に腹を抱えて笑った。
やっぱり学生プロレスは面白いな。

記号論としてのプロレスの行き詰まり 〜5.6DDT後楽園大会



DDTの関係者に仕事で世話になったという知人に誘われて観戦。
新木場の定期戦とかだと実質100人ちょっとしか来ていないという話だったが、連休の間というのも幸いしたのか後楽園ほぼ満員だった。

もっとも、よく見ると東西のイス席が他団体に比べて少なめに…じゃなかった、余裕をもって配置されていたり、北側席の半分以上をスクリーンで閉ざしたりしているので他と単純比較もできないが。
まあ生活の知恵みたいなもんだろう。

DDTは会場にビジョンなりスクリーンを用意して、試合が始まる前に「これまでの流れ」みたいなVTRを流している。
いわゆる煽りVであるが、これは良い。
たとえ選手がわからなくても、「なんでこういう試合が組まれているのか」を説明してくれると試合に入っていきやすい。
ドラゲーもこういうのをやってほしいもんだ。

で、そこまでやっているのにかかわらず、なんとなく全体に白けたムードがある。
もちろん部分部分では観客の熱狂を呼ぶものはあって、たとえばこの日巨漢のKooと闘って圧倒的劣勢を強いられたアントーニオ本多が延髄斬り→腕固めでレフリーストップを奪った番狂わせであるとか、ゲストで登場した獣神サンダーライガーと飯伏幸太のハイレベルな攻防とか、シークレットゲストとしてメインの5WAYマッチを途中から裁いた和田京平の登場とか、そこそこ沸く場面はあった。
が、あれだけ会場に人はいるのに会場全体が一つになって入り込むことような空気はなく、団体の売りであるはずのメインイベントでもそれは同様。
どこか白けて見ているムードがある。

印象的だったのはメイン前の煽りVで、試合中の不正行為が予想されるメタルヴァンパイア(ヒール軍)に対して正規軍の結束を呼びかける矢郷良明に高木三四郎がこれはタイトルマッチなのだからそんなことばかり言ってられないと反論すると、矢郷は高木を殴打する。
それでも納得しない高木に再度矢郷が手を挙げると、高木は「ぶったね!二度もぶったね!親父にも殴られたことがないのに!」とどこかで聞いた台詞を吐き、会場はこの日一番沸いた。

問題は試合でこれを上回る歓声を引き出すことができない点にある。
かつて、試合中の言葉のやりとりなどで客席を沸かせることが「口(くち)プロレス」と呼ばれ蔑まれていた時代があった。
しかしDDTでは「口プロレス」こそが会場を沸かせている。
そうなると今度は「なぜプロレスの試合をしているのか?」という疑問が出てくる。

もうひとつ印象に残ったのは、前座の男色ディーノ、マサ高梨組とKUDO、ヤス・ウラノ組によるタッグマッチである。
試合前、ディーノがKUDOらに小瓶を見せ、これは象をも倒す強力な下剤であり、お互いこれを飲んだ上で勝った方があそこにある下痢止めの薬を飲むことができるという試合はどうか?と持ちかける。
ディーノと高梨は先に自分たちで下剤を飲み意気込みを見せるが、KUDOとウラノはまるで話そのものを聞いていなかったように普通に試合を始めてしまう。
そして開始からまもなくディーノと高梨は腹が痛いという素振りを見せ、交互に試合中にトイレに行き、半脱ぎのタイツ姿にわざわざトイレットペーパーまで持ってきてヒップアタックをしたり、排泄物がタイツの中に存在するかのようなムーブをする。

ディーノたちが飲んだのが本当の下剤であるとは、おそらく観客の一人として思っていない。
ここで推奨されるのは「そういうものを飲んだ」と見なしてその上で「あーあー大変だね」と見なしてやる、そういう観戦方法である。
だが記号としてしか認識されないギミックはギミックの役割そのものを無意味にさせる。
ここに至ってリングの上ではディーノの下剤とメタルヴァンパイアの蹂躙も地続きになってしまい、女性である浅野レフリーがリングの上で屈強な男たちに暴力を受けていても「あれもネタなんでしょ?」という麻痺が観客に起こる。

プロレスに限った話ではないが、スポーツを含めたショービジネスにとってもっとも観客の熱を引き出させる方法は見る側に感情移入させることである。
サッカー日本代表があれだけ観客の熱を集める理由は、ほぼ観戦者のすべてが「日本代表に勝ってほしい」という思いを共有していることにある。
従って日本代表が劣勢になれば大きな声が出るし、得点を入れれば狂喜する。
プロレスは長らくこのシステムで繁栄してきた。
街頭テレビの力道山から始まって、ブッチャーの悪行に耐えるテリー・ファンクからアントニオ猪木、前田日明、大仁田厚まで時代と人によって提供するテーマを変えつつ「観客に感情移入させる第一人者」であり続けた。

ところが21世紀に入りプロレスという手品のタネが明かされるようになると、多くのプロレスファンが「なんだ、タネがあったのか」と離れていった。
代わりに入ってきたのは「ネタとしてのプロレスを見る人たち」である。
彼らはプロレスにタネがあるのを百も承知で見ている。
が、彼らはもう感情移入してくれない。
当事者としての生理学的な反応を避け、「こういうネタか」とメタな視点でしか見てくれない。
そんな人が何人いたところで、かつてのような反応は返ってこない。

本当はプロレスに限らず、世の中の大半のものはネタとガチの間を行ったりきたり浮遊しているのだが、そのような曖昧な態度に彼らは耐え切れない。
「どっちかに決めてくれ」と決断を迫る。
二者択一は人類の歴史でもっとも人気のある提示方法である。

DDTには西加奈子の「こうふく みどりの」に出てくる、アンドレ・ザ・ジャイアントに延髄斬りを決めるアントニオ猪木を見て明日も頑張ろうと考える、そんな昔みたいなファンはまずいない。
にもかかわらずリング上のメインストーリーで展開されるのは悪辣なヒール軍団とそれを迎え撃つ正規軍というクラシカルな図式である。
少なくともこの団体においてはヒールの悪行に本気で憎悪しベビーの正規軍に感情移入するのは難しい。
みんなこう思っている。
「だって、仕事でヒールやってるんでしょ?」

マッスルがあれだけ人気を博したのは、古典的なヒールvsベビーの図式から脱却し「なぜ我々は闘っているのか?なぜ我々はプロレスラーなのか?」という提示が恐ろしくリアリティあるものだった、という点も大きいと思う。
DDTから誕生したマッスルは、DDTへの最大のアンチテーゼなのかもしれない。

それとも、客がこうして入っている以上ニヤニヤ見ようが反応しまいがこれが正しいのだ、これが21世紀のプロレスなのだ、という解釈もあるかもしれない。
けど、それって面白いのかな?
感情移入して見る事が最大の娯楽だと信じてきた私からすると、それはまるで理解がつかない世界なのだが。

今夜の勝利を1999年の彼に 〜大日本5.4桂スタジオ大会観戦記



 シャドウWXのタイトル挑戦が見たくて大日本の埼玉・桂スタジオ大会へ。

 桂スタジオ、草加と越谷と八潮の境目にあたる国道沿いにあった。
 なんとはなしに郊外の匂い。
 まあ、倉庫だよね。普段は。
 試合開始1時間前には特リンの当日券を買えたが、開始10分前には全席完売していた。やるね。

 中に入ると意外に狭かった。新木場1stリングがちょっと広くなったかな、程度。
 大日本のビッグマッチというと、新川崎小倉陸橋下特設リングのイメージがあるのだが、どっちが入るのだろう。
 新川崎は開発で今は使えなくなってしまったらしいが、やっぱり大日といえば屋外だよね。

 前座で目についたこと。

・第一試合の若手、両方知らなかったがちゃんと身体ができてて有望そうな新人だった。

・谷口、痩せたな。

・NOSAWAとMAZADAが新人の今井君を“TOSAKA”として連れて来るが、いまいち不発。

・頭頂部だけ禿げあがった長髪になぜか裸足、右手には布団たたき。
 ネクロブッチャーの意味の分からない狂いっぷりは確かに面白い。
 面倒くさいことはやらない。デスマッチなんか適当ぐらいで丁度いい。こりゃポンドより上だ。

・場外に放り出されたアブドーラ小林、私の目の前にあったイスをつかみ、持ちあげようとしたところでなぜか私と目が合ってしまい、そしたら「…新品だからやめとこう」と戻していた。コスト管理は重要だ。

・セミファイナルに抜粋の星野勘九郎、ナイトメアとかグレプロといったどインディーばっか出てるのでどうかと思ったら意外にそこそこ出来ていた。フィニッシュのランニングセントーン(ヒップドロップ?)をもうちょっと磨けばもっと出来るレスラーになれるのでは。

 とはいえ、今はそこそこ出来るレスラーでも一つの団体で食っていくのは難しいかもしれない。
 この頃はたいがいのインディー団体がツアーを行わず、月に一回くらい都内の小会場で大会を打つ。
“団体”と“プロモーション”と“○○自主興行”の区別がほとんどない。
 そうするとメジャーに出られない選手はそういった小さな大会を次々ハシゴして出てないと生活も苦しくなってしまう。
 当然、出場団体を選んでいる余裕もなくなる。
 するとまた、雇う側もそういう事情を見越してギャラを買い叩くことが出てくるだろう。
 ワーキングプアレスラーの誕生である。

 昔に比べて、今はレスラーとしてリングに立つだけの夢なら圧倒的にチャンスが広がった。
 しかし、逆にレスラーとしてプロレスのギャラだけで食べていくのが至難になりつつある。
 それは表現するだけなら飛躍的に機会が増えたものの、それで食べていくのは極めて難しいブログの世界と相通ずるものがあるなと、井上勝正のへだらなタイガース―プレックスに肩を3つつけさせる星野を見て思った。


○メインイベント BJWデスマッチヘビー級選手権試合 蛍光灯ボード&凶器持込デスマッチ  伊東竜二vsシャドウWX

 私にとって最高のプロレス団体とは「1999年の大日本プロレス」に他ならない。
 ミスター・ポーゴ、松永光弘、中牧昭二、ターザン後藤といった「第一期インディーオールスター」が大挙して団体を去りもう終わりかなと思われた1998年後半の大日本プロレスは、必要に迫られて、というより「どうせダメならと」とヤケクソ的に若手を全面に打ち出す施策を取った。
 そうしてプッシュされたのが山川竜司、本間朋晃、そしてシャドウWXの「デスマッチ新世代」である。
 上からのしかかっていたつっかえがとれた彼らは「動けるデスマッチ、レスリングの中に凶器を織り込むデスマッチ」というまったく新しいスタイルを作りだした。
 後楽園で、札幌テイセンホールで、新川崎小倉陸橋下特設リングで、彼らはわずかな支援者との間だけに永遠に残る伝説的な試合を積み重ねていった。

 しかし、この「デスマッチ新世代」の三人が誰も見たことのないようなデスマッチで鎬を削ったのはわずかに1年だけ。
 翌2000年になるとFMWとの団体対抗戦がスタート、さらにアメリカ・CZWとの長きにわたる抗争も始まり、新世代同士の対決は一時ストップする。
 その間にシャドウWXは後楽園であわや大惨事となるような火災事故を起こし、謹慎の意味も込めて第一線から降ろされる。
 そして翌年、新世代の旗手・本間朋晃が突如として大日本を退団、さらには山川竜司が試合中の事故で頭がい骨骨折という重傷を負う。
 山川はその年の年末に感動的な復帰戦を挙げるがケガの後遺症もあってついに往時の勢いは取り戻せず、そしてCZWが撤退していった。
「新世代」のうち一人残されたWXもかつての勢いは取り戻せぬまま、大日本は暗黒期とも呼べる暗い時代に入る。
が、そこで沸々と胎動していたのが若き日の伊東竜二であった。

 あれから6年。

 今や伊東は誰もが認めるデスマッチの第一人者になった。
 デスマッチの準備係だった若手の一人は「デスマッチアーティスト」と呼ばれるようになっていた。
 WXは、黙って前座を務め続けた。
 ある日は外人に叩きのめされ、ある日はお笑いの試合に入って失笑を買い、ある日は若手の踏み台にされた。
 そんな彼が昨年、団体のプッシュを受け続ける若手の宮本裕向に対して呈した苦言。
「おまえそんなんでイイ気になるなよ」
 あれは本音だったんではないだろうか。
 決してまたメインのストーリーラインに絡みたいとかそういう我執の欲から来る自己顕示ではなく、そんな浅いレベルのプロレスで満足してたら直に苦しくなるぞ、というその道の先輩からのアドバイスであったような気がしてならない。
 ところが宮本が過敏に反応したことで、この組み合わせはそのままリングへと転化した。
 派手なバンプこそ多く客席を沸かせるものの、展開と攻撃にメリハリのつけられない宮本に対しWXは積み重ねた10年のキャリアからくる攻撃のインパクトと巧みな試合展開を見せ、終わってみれば観客はずっと秘められてきたWXの強さを再確認することになった。
 思えば、あの時宮本が反応しなければ、WXはいまだに第二試合に出ていたのかもしれない。

 先に入場するWXのセコンドに山川竜司と本間朋晃が来たら卒倒してまうな、と思ってたがさすがに来なかった。
 代わりにセコンドについたのは、恩讐を超え今はWXをサポートする側に回った宮本。
 WXは久々の顔面ペイント。“あの頃”を思い出す。
 対する伊東はいつも通り、蛍光灯の束を抱えての入場。

 序盤、伊東が試合を優勢に進める。
 手数で上回り、壁際の机にWXを寝かせると桂スタジオの壁をよじ登り、6メートルほどの高さの段からボディプレス。
 落下してから相手に命中するまでにゆっくり「1、2」と数えられるくらい、伊東の落ちてくる時間は長かった。
 伊東の身体はWXもろとも、下の机までペシャンコにした。
 伊東はすぐに雄たけびとともに立ち上がる。
 あれだけの危険な技を出してなお、ケガをしない。伊東もWXもプロである。

 リングに戻ってからは蛍光灯の波状攻撃。
 束で殴る、Tシャツに入れて腹を蹴る、後頭部に載せてカカト落とし、そしてボディスプラッシュ…。
 しかしWX、必至に返す。
 ラリアット、蛍光灯ボードへのパワーボム、ブレーンバスターで反撃。

 そして伊東が再度反攻を開始してまもなく、試合が山場を迎える。
壁際に設置した大型の足場をリングサイドに移動し、4メートルほどの高さの段からのドラゴンスプラッシュ。
 ものすごい飛距離。落下。衝撃。

 間違いなく決まった、という大技をWXが息も絶え絶えになりつつ肩を上げる。
 場内は興奮の坩堝。
 もう一発を狙って再び足場に登る伊東、そこで蘇生して伊東を追ったWX。足場を登る。

 脳裏に甦る1999年の川崎体育館。
 あの日、若かりしシャドウWXは山川竜司を二階席からパワーボムで投げた。
 その何ヶ月後には、札幌テイセンで本間朋晃を二階席の通路から投げた。
 蘇るか伝説。

 しかしWXが選んだのはパワーボムではなく、ブレーンバスターだった。
 空中に放り出される伊東とWX。
 どちらが技を仕掛けたとか、どちらがやられたとか関係ない。
 両者ともに腰と背中にひどいダメージを負っているはず。
 桂スタジオに轟く「伊東!」「シャドウ!」の割れんばかりの大歓声。

 あの頃、確かに”デスマッチ新世代”はすごいデスマッチをしていた。
 けれど客席はまばらだった。
 プロレスに明け暮れるしかない、俺たちのようなバカだけが小さくとも偉大なる歴史の目撃者だった。

 今はこれだけ熱心なファンがいる。
 そしてそのファンを作ったのは、伊東であり、佐々木貴であり、沼澤邪鬼だ。

 どうするWX?
 それでもお前は伊東に勝てるのか?

 WXがヨロヨロと立ち上がる。
 伊東に背を向け、リングサイドへ歩を進める。
 セコンドの宮本がペットボトルを渡す。
 WXがペットボトルを開け、中の液体を口に含んだ。
 ガソリンの匂いが桂スタジオに充満した。
 ビッグファイヤー!

 しかし、伊東にファイヤーは届かなかった。
 これがブランクというヤツだろうか?
 とはいえ、伊東は依然フラフラだ。
 WXが伊東の首根っこをつかみ、蛍光灯ボードへ垂直落下ブレーンバスター。すさまじい破裂音と白煙。
 しかしカウントは2。
 もうどうなるのかまったくわからない。
 再度、WXが伊東の首根っこをつかむ。
 旋回式のブレーンバスター。
 伊東の足はもう上がらなかった。
 その瞬間、今夜一番の大歓声が桂スタジオを包んだ。

 やったねWX。
 やっちゃったねWX。
 時計の針を戻しちまった以上、足踏みは許されない。
 過去と同じことは、もう今はできない。
「新世代」と呼ばれた男も酸いも甘いも噛み分けて、今は38歳。
 誰も見たことのない世界を、今は誰よりも俺が見たい。
 あんたのファンだったという記憶自体を、俺はずっと忘れていたよ。
 呼び覚ましてくれてありがとう。
 あんたのファンでいさせてくれてありがとう。

回顧主義からマーケットは生まれるか

みちのくプロレスが6月から「みちプロ15周年ノスタルジックツアー」というシリーズを行うそうだ。

http://www.michipro.jp/anniversary/index.htm

歴代みちのくオールスターとも言える、豪華なメンバーだ。
後楽園のメインはSASUKE組vs海援隊☆DX。
SASUKE組が活動していたのは海援隊のWWEに転出後のことなので、チームとしてはまったくの初対決。
まあ「OB対決」と言われてしまえばそれまでだが、「SASUKE組加入は人生の汚点」と言いきっていたCIMAが無事に試合を終えてくれるのだろうか。
海援隊側のXはショー船木、もし来られなかったらTAKA、という感じか。

前座にもデルフィン軍団、藤田ミノル、マッチョ・パンプと懐かしい顔ぶれ。
楽しみな大会である。

さらにこの大会はシリーズを予定しているらしいので、後楽園の後の地方興行で

○CIMAvs藤田ミノル
○佐藤兄弟&フジタハヤトのヒール軍「九龍」vs海援隊
○義経、ラッセらの現正規軍vsグラン浜田、タイガーマスクの旧正規軍

なんて試合も組まれるかもしれない。
特に1999年〜2000年にかけて、『大阪生まれの天性のクソガキvs東北の順朴な青年』という図式が抜群にハマっていたCIMAvs藤田の再戦はぜひ見てみたい。
あれから10年たち、クソガキだったCIMAが団体を引っ張る責任者として真面目路線になり、正当なみちプロ後継者っぽかった藤田の方が道を外れてヘンな兄ちゃんになってしまったという逆転現象が興味深い。


で、気になるのはこの「ノスタルジックツアー」後のことだ。
昨年「覆面ワールドリーグ」も他団体の大物の参戦で盛り上がったが、その後はまた現状のこじんまりとした観客動員に戻ってしまっている。
今回もこの繰り返しでいいのかな、と思わざるをえない。

回顧主義は売れる。
本でもCDでも、昔ヒットしたものの焼き直しは安定したセールスを残す。
そもそも昨今出されるプロレス本など半分以上は黄金期の回顧録か舞台裏、みたいなものばかりである。
だが、ここから大きなマーケットが生まれるだろうか。

プロレス界も本の世界もCDの世界も、おそらくかつてほど栄えることは今後ない。
だからといって過去の遺産を食いつぶすのみでは終わってしまう。
過去の遺産を使って、新しい遺産を作る努力をしないといけない。
「みちプロ15周年ノスタルジックツアー」がどうにか点ではなく線になって“今”のみちプロを活性化する施策となってくれることを切に望んでやまない。

そういう意味でうまく過去の遺産を使っているなと感心するのは大日本である。
昨秋、団体のプッシュを受けまくっていた宮本祐向とそのプッシュに苦言を呈したシャドウWXの対立がWXの勝利という形で収束するとWXは今年に入ってその勢いのまま現チャンピオンの伊東竜二に挑戦を表明、再び割って入った宮本を退けたWXは伊東と長いスパンで抗争を深め、そして明日の埼玉・桂スタジオ大会で伊東とデスマッチヘビー選手権をかけて闘う。
98年〜2000年ごろにかけては団体の強さの象徴でもあったWXも、ここ5年くらいはおとなしく前座に控えていた。それがここにきてのカムバック。
現在大日本の会場に来ているファンの多くはWXが活躍していた当時のファン層から入れ替わっていると思うが、それでも会場で圧倒的な支持を集めているのは「見たことはないけど、昔凄かったというのは知っている」ということか。
ともあれ、ここ最近にない盛り上がりを見せている。
大日本はこういうタイトルマッチに至るまでの“寝かせ”が上手い。

WXといえばファイヤー、というイメージが強いが“往時”を目の当たりにしていた私からするともっともインパクトがあったのは「川崎体育館での二階席からのパワーボム」である。
川崎体育館はそれほど二階席が高いわけではないが、それでも最初に見たときの衝撃は忘れられない。
(今考えるとあれを受けていた山川竜司や本間朋晃も凄い連中だ)
桂スタジオで顔面にペイントを施したWXの狂気が甦るとすれば、久々にあの技が見てみたい。

煽りVについて考える

「紙のプロレス」を読んでいたら「煽りVとは何か?」という興味深い特集が組まれていた。
PRIDE以降、総合格闘技興行および中継番組ではマッチメークに至るまでの過程、対戦する両者の歴史、因縁、試合に付随するテーマなどを盛り込んだ映像を観客に見せることで試合への感情移入を促すのが通例となった。
私は総合格闘技はあくまで関心領域に過ぎず知識も明るくないため、今回は「プロレスにおける煽りV」の歴史およびその効用を考えてみる。

先の「紙のプロレス」誌上で菊地成孔はナチスの宣伝相であったゲッペルスを引き合いに「広告と商品」という理論を展開している。
「煽りV=広告、試合=商品」という図式である。
そして広告のグレードに商品の内容が追いつかないようではかえって商品の評価を落とすので、すべての煽りVが良すぎてもまた問題である、という要旨のコメントを残している。

これなどはPRIDEや「やれんのか!」の煽りVを手掛けていた佐藤大輔氏の映像作品が秀逸過ぎるがゆえに起こった逆説的な懸念であるが、プロレスの場合そこまでの作品が残された例はあまりない。
しいてあげるならば、猪木引退試合の中で古館伊知郎が「われわれは、猪木を卒業しなくてはならない!」とナレーションしていた、猪木のレスラー人生を回顧する映像くらいであろうか。
たとえば「ワールドプロレスリング」ではタイトルマッチなどほぼ何がしかの形でその対戦に至るまでの経緯と選手コメントをまとめた映像を作っているが、叙情的かつ圧倒的なPRIDE佐藤映像に比べてあまりにスタンダードな作りのため、それほど印象に残っていない。

プロレスにおける「煽りV」の歴史は、会場で流れたか未確認であるが、猪木が引退を賭けて藤波と闘った88・8・8横浜文化体育館の試合からであると記憶している。
肉体的に衰えていく猪木に二番手というポジションに焦る藤波が反旗を翻したかの沖縄での「飛龍革命」の映像から始まり、両者のこれまでの対戦のダイジェスト、さらには新日本の巡業風景まで織り交ぜて見る者の感嘆を呼んだ映像であった。

そして90年代に入ると東京ドームや横浜アリーナといったビジョンが併設されている大会場では、メインクラスの試合の前に数分間にまとめた「ここまでの経緯」的映像を流すのが常となった。
ただし、これといった編集もナレーションもない、テレビ放送の映像をダイジェストにまとめた程度のものだった。

定期的に煽りVらしきものを流すようになったのは冬木弘道によってエンターテイメント路線を曳いたFMWが始まりではないだろうか。
このときの路線はそのまま今のハッスルにつながっていく。
また、WWEの中継を模倣した形でDDTが映像を流すようになったのもこの後である。
ただしこれなどは「スキット」であり、煽りVとは根本的に役割も内容も異なる。

2000年代に入り総合格闘技が台頭し、試合前に煽りVを流して観客の興味を誘う方式が一般化すると、徐々にプロレスでも同じ方式を採用するようになった。
この頃になると「団体のストーリー展開が早すぎて、たまにパッと見に行っても誰と誰が組んでて誰と誰が因縁関係になっているのかわからない」という客側の意見に配慮した各団体が、できる範囲で映像を作って流したりしていた。

煽りVではないが、WWEに倣って所属選手一人一人にプロモーションビデオ風の独自の映像を作っていたのはK−DOJOである。
これは入場時に流すものであるが、あくまで各選手のイメージを定着させる目的であり試合の煽りではない。

こうして考えると、プロレスはまだ先のゲッペルスの例でいう「宣伝」があまり上手ではない。
これはコストの問題が大きいと思うが(さいたまスーパーアリーナの3万人と後楽園ホールの1500人を同時に扱えといったところで無理はある)、裏返すとプロレスは大げさな煽りVがなくてもそこそこ見れてしまう、という要素もあるのかもしれない。
何の予備知識なくドラゴンゲートを見てもそこそこは楽しめるように。

現段階では「ヨソがやってるのにウチがやらないわけには」的に手を出している印象だが、今後どこかで今までにない形でのイントロダクションが生まれる可能性はある。

「紙のプロレス」の特集でマッスル坂井が「NOAHの煽りVを作りたい」とインタビューに答えていたが、NOAHはこの「宣伝」を一切放棄した戦略をとっている団体だ。
もしかすると「宣伝」が「商品」に勝ってしまう事態を危惧しているのかもしれない。
とはいえNOAHの選手はバラエティ番組には結構出たりするので、いずれこういうドキュメンタリータッチの映像を作る可能性はあるかもしれない。
その際、どういう化学反応が起きるか、見てみたいものである。

路上でのプロレスを考える

書店店頭で闘う「本屋プロレス」という試合があったらしい。

http://jp.youtube.com/watch?v=bWqvJRupCYg
http://jp.youtube.com/watch?v=wqkGW3evBwI

どこの書店か知らないがよくやるなあと思う。
書店というのは八方美人的な要素が求められる。
つまり知的な本を求めるお客には「こんな良い本がありますよ」という一方でアイドルのグラビアを求める青少年には「もっとエッチなのもあるぜ」という真逆さを同時に行う、そういう八方美人さである。
この書店は普通の街場の書店みたいだが、ここまで『プロレスの店』『プロレスファンの店長のいる店』というカラーを出してしまって大丈夫なんだろうか。
まあ、どうでもいいけど。

さて、この『本屋プロレス』にはろくに告知もないのに200人以上の観客が集まったという。
高木三四郎vs飯伏幸太というマッチメイク、観覧無料という条件を合わせてこの人数が多いのか少ないのか判断は難しいが、アップされている動画を見ると観客は皆喜んで見ている。
「本屋で行うプロレス」というアングラさと裏腹に、見る側には非常に明るい空気が漂っている。

動画を見ると高木と飯伏が店内で闘う場面は初めの数分間だけで、あとは書店の外に出て二人は闘い続け、最後も飯伏が路上でジャーマンを決めて終わる。
終盤の高木のラリアットと飯伏のジャーマンは下がアスファルトだけに相当ヒヤッとする。
通常の“垂直落下式云々”よりはるかに危険な受身を取っているのにそれが見る者にろくろく伝わらない以上、やはりこれはあまり正しい試合とは言えない気がする。
こちらもこちらでよくやるなあ、といったところか。

飯伏はこの「本屋プロレス」の前には「コンビニプロレス」というのをやったようで、昨年は「公園プロレス」というのもやっている。
「本屋プロレス」の試合後コメントで高木は飯伏に「『路上の王』の称号を今日でオマエに譲る!」と言っているが、今日はこの「路上プロレス」、正確に言うなら「プロレスラーが試合の一部、あるいは試合の一環としてリングではなく路上で闘ったもの」について考えてみたい。

まず「路上プロレス」の起源というのを考えてみる。
パッと思い浮かぶのはかのタイガー・ジェット・シンの「猪木伊勢丹襲撃事件」であるが、あれは試合(の一部)ではないし、あれを入れるとIWAジャパンの浅野社長の“新宿2丁目劇場”は全部路上プロレスになってしまうため、除外したい。

嚆矢となるのは猪木vsマサ斎藤の巌流島決戦である。
ただ、感覚的には「路上プロレス」という感じはしない。
あの試合はリングもあり、また場所も島の平地であって路上ではない。
ただ、あの試合が「プロレスはどこででもできる」というテーゼの基になっているのは間違いがない。

通常のプロレスと路上プロレスの中間点にあったのがFMWとW☆INGのストリートファイトデスマッチ、エニウェアフォールマッチである。
客席の中を練り歩くというそれまでの場外乱闘はここで売店やバルコニーといったところまで拡大するが、時には会場外にまで乱闘が進出するということもあった。
同時にみちのくプロレスでよく行われていたヨネ原人vsウィリー・ウィルキンスJrもよく会場の外にまで乱闘を拡大していた。
思えば、メジャー団体から「リングアウト」の決着が消えた時期でもあった。

そして現在の飯伏にまで伝わる「路上プロレス」の本流を作った人間、それは高野拳磁とミスター・ポーゴであろう。

高野は95年2月に渋谷のOnAirEastで行われた初のライブハウスプロレス『野良犬伝説』で対戦相手のKYワカマツ、宇宙パワー、デビューしたばかりの高木三四郎ら若手選手を次々と路上に連れ出し、一般車両が通るのもかまわず場外で大暴れしている。
これは屋台村プロレス、国際プロレスの鶴見青果市場に隣接するスーパー・ジャスコの店外・店内での乱闘というところまで繋がってゆく。
先の「本屋プロレス」でも店外に出る高木に観客から「ジャスコ」コールが起きていたのは興味深い。
なお、鶴見青果市場とジャスコの歴史を調べていたらこんなページを見つけた。
大変貴重な資料と思われるので無断ながらリンクさせていただく。

http://www.asahi-net.or.jp/~qy3i-hmn/zakki/tsurusei.htm

一方、ミスター・ポーゴは新生FMW離脱以降の90年代後半に立ち上げた自らの団体・WWSで「マラソンマッチ」と呼ばれる、会場の外に飛び出して追いかけるように乱闘を取り囲む少人数の観客とともにひたすら会場近隣を練り歩くスタイルを作った。
最終的には伊勢崎市庁での乱闘というところまでいったと聞いたが、私も詳しくは知らない。

2000年代からはインディー団体よりさらに下の階層である「どインディー団体」という概念が生まれ、先の飯伏の公園プロレスの舞台となったFU☆CK!や埼玉プロレスのサバイバル飛田が川の中で怪人と闘ったり、路上であろうとどこであろうと何をしても驚かれないという状況がプロレス界の末端で生まれた。
また、大日本が「海岸プロレス」という砂浜で闘う試合を行ったこともあった。
プロレスの概念と同時に規範も拡散し、消失した時代である。

以上、私の知る限りで路上プロレスの変遷をざっと洗ってみた。

大仁田厚のデスマッチが日本のプロレスに大きな影響を与えたように、リングのない路上でのプロレスがジャンルそのものを変える可能性は多いにある。
ただし、お金をとって観客に見せる興行として考えた場合、提供の仕方は依然として難しい。
「本屋プロレス」はプロモーションイベントとしての無料公開興行であったが、路上プロレスが今後興行として成立するかどうか、飯伏幸太の今後の展開を見守りたい。

※文中のデータ・内容などに誤りがあった場合はご指摘いただけると幸いです

Gスピリッツ Vol.6 (DVD付き)

1月以来久々発売の「Gスピリッツ」今回で6号。
何にせよ休刊しなくてよかった。
原油高の影響で云々、と定価が1300円にまで値上がりしたことのエクスキューズが載ってたが、どうせもうこれ買ってるのはほとんどが30歳以上の「かつてのプロレス者」なんだから、もう開き直って「高級プロレス誌」ぐらいの姿勢でやったらどうですかね。
我々はプロレス雑誌界の「サライ」をめざします、みたいな。
そもそも毎回載ってるミステリオだのマスカラスだののマスク全種類公開はニーズがあるのか?
「ドクトル・ルチャがやってんだからしょうがないだろ!イヤなら『Gリング』読め!」と言われたら返す言葉もなく「こんな会社辞めてやる」と雪の札幌に飛び出すしかないわけですが。

で、今回の特集は『アントニオ猪木の「リアル」と「リアリティー」』。

なにより「プロローグ」と題されたまえがきのエッセイが素晴らしかった。
これ書いてるのはドクトル?
動かないタイムマシンをなんとか叩いて動かそうとするかの如く、戻れない過去への憧憬が見える名文だ。

TKに猪木vsペールワン戦を解説させるという企画は面白いが、TKじゃいろいろしがらみがあって言えないことも多いだろう。
まあ本当のテーマは「猪木は本当に強かった、と信じたい」だからいいんだろうけど。
猪木のテーマって、難しいよな。
もういろんな斬り口で斬られ過ぎちゃってるし。
新鮮な斬り口を探すのが難しい。

第二特集『ジャイアント馬場と学生プロレスの知られざる関係』って思わず「お?」ってなったんだけど、ようはMEN'Sテイオーのロングインタビューだった。
テイオーが初めて新日本のリングに上がった94年の段階では明確に存在した学生プロレスに対する蔑視が消えてきたのがちょうどグレイシーが出てきてプロレスの地位が落ち始めた90年代後半というのが興味深かった。

今じゃDDTみたいに「学生プロレスからまずスカウトする」という団体もあるし、「学生プロレス出身はお断り」なんて団体はないだろう。
若年人口が減っている一方で競技が多様化し、そこへ加えたプロレス自体のマイナー化も含めると、人材の確保はまったく難しい。
前田日明みたく「ドロップアウトした奴ら集まれ」という風になるのもわかる。
となると、ハッスルの「素人を適宜使えるように使い飽きられたら変える」というのも未来を見据えた選択かもしれん。アウトソーシング化といえなくもないし。
ただそうなると「プロレス」という言葉自体は残ってもその最大公約数的認識は、30年前のそれとまったく違ったものになっているだろう。

しかし「Gスピ」は毎号付録DVDがついてるが(今回は武藤全日本の数試合)、いっそのこと昔の映像にしてはどうだろう。
権利関係が難しいのかもしれんが、その方が需要がある気がする。

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