<< ウルトラバイオレンスな輸入DVDを買う | main | 2008年年末テレビウォッチング >>

スポンサーサイト

  • 2009.02.19 Thursday
  • -
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


ゼロ年代の想像力

全日本プロレス8.31両国大会をPPVで観る。
大会の目玉は「ダブルメインイベント」と銘打たれた2試合。
ひとつは武藤が保持するIWGP選手権のタイトルマッチ。
相手は2週間前に所も同じ両国でG1クライマックス初出場・初優勝の偉業をなした後藤洋央紀。

もうひとつは全日の至宝・三冠ヘビー級選手権。
若きチャンピオン・諏訪魔に“馬場・四天王世代を知る最後の全日戦士”太陽ケアとの一線。

試合の結果と詳細はスポナビに譲る。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/live/2008/2008083101/index.html
ここではちょっと試合から離れたことを書く。

K-1、PRIDE隆盛以降その座を奪われたばかりかズタズタにされたプロレスは、K-1、PRIDE両ブームが過ぎ去って久しい今もなお、新日本・全日本・ノアのメジャー団体を中心として動いている。
ミスター高橋と2ちゃんねるによって「フェイクである」と位置づけられたはずのプロレスのメインストリームは、いまだに新日本やNOAHにあったりする。

「ゼロ年代の想像力」で宇野常寛は批評の世界でいまだに90年代的価値観が跋扈し、またそれを誰も訂正しない風潮を嘆いている。
そして20代の彼は彼の考える「ゼロ年代の批評」を構築しようと懸命である。

翻ってプロレスの世界は、いまだに90年代の「四天王プロレス」と「軍団抗争」の世界から変わっていない。
マッスル、666、ドラゴンゲートといったポストモダンなプロレスは外部にあり、中心軸には「試合で見せる三冠選手権」「ベビーとヒールに別れた軍団抗争」が続く。

もうこれからの時代、猪木と藤波が描いた、あるいは馬場や鶴田が紡いだ「大きな物語」は誕生しない。
タコツボ化した世界で(宇野はこれを衛星化=プラネットと表現する)、人々は自らの入るべきタコツボを延々と探し、一度入ったら他のタコツボに見向きもせず、タコツボの仲間が「あそこのツボも悪くないよ」とすすめたところだけを時々覗きにいく、そんな世界が待っている。
ゆえにプロとアマの境界線が瓦解し、また“プロレス”の定義が流動化するのも時代の流れの一つであると理解していた。

ところが、いまだに三冠とIWGPはメインにある。
いや、その二つが中心にあること自体はそれほど問題ではない。
問題なのはその二つをめぐる物語が、ずっと変わっていないことなのだ。

たとえば現三冠チャンピオンの諏訪魔は、日本マット界随一のパワーファイターである。
彼の強力に人々は酔いしれる。
しかし、現在全日本プロレスが彼に求めているのは、20分、30分と時間をもたした上で相手のよいところを引き出し、その上で相手に勝つプロレスである。
つまりは三沢光晴や、小橋健太の試合像を求めている。
だが諏訪魔にそのような試合はできない。
正確に言えばできなくもないが、先の二人ほど美しい展開にはならない。
どこかオタオタした、ぎこちない展開になる。
今回のケア戦はいい例だった。
たぶん、会社はかつての川田vs小橋戦のようなフルタイム戦を期待してたのだろうが、現出したのは60分の中で生まれる間をなんとか埋めようとする、若き二人のレスラーの苦悩の姿だった。

私は諏訪魔の三冠戦は5分で終わっていいと思う。
というか、むしろ5分にしないとダメだと思う。
前と同じことをしていては先人より上には行けない。
プロレスは上塗りをしていかなければならない。
上塗りをしていかなければ、あとは下がるだけなのだから。

だがそれには前提条件がつく。
それは「ずっとプロレスを見続けている客を相手にした場合」という条件である。
つまり、定期的にファン層が入れ替わっていくならば、試合内容も、ストーリー展開も同じものをやっていても済む。
もしかすると、今のメジャー団体は「90年代と同じことをしている」のではなく、「90年代を見てないファンに一番楽しめるものを提供している」のかもしれない。

つまり、メジャー団体は長く観ている人に「もうあなたたちはいいですよ、どうぞ他の面白い団体を見てください、我々はあなたたちのようなズブズブの人は相手にできませんから」と考えているのだろうか、ということである。
これはやっかむわけでも拗ねてるわけでもなく、極めて真面目に「プロレスはある程度見たら卒業するべきものなのだろうか」と考えてしまった。
なかなか答えは出ない。


それにしても説明に説明を重ねて、ベタベタのベタベタに終わらせる天山・小島vsGBH&VMのタッグマッチを見るに、想像力とか、ダイナミズムといったものは娯楽から消えるのだろうかと考えた。
真壁やTARUの言葉には現実感がない。
ハッスルの世界と同じである。
「こういう風に観なさいよ」という定義が決まっている。

もし私が絵をかけるなら、そこをグチャグチャにかき回す。
つまり二人きりの天コジをGBH&VMのメンバー総動員(併せれば12〜13人にはなるだろう)が全員でボコボコにする、という絵を一度は入れる。
“友情友情言ってるけど、本当にそれって正しいのか?”という揺さぶりを入れないと、「天山・小島の友情」というキーが生きない。
われわれはそれを『キン肉マン』で自然に習った。
「窮地で仲間が現れ、敵をなぎ倒す」
というアメリカの1コマ完結カートゥーンみたいな話は、どうも背中がかゆくて仕方がない。
それとも時代は、1コマ完結を求めているのだろうか。

スポンサーサイト

  • 2009.02.19 Thursday
  • -
  • 00:39
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
トラックバック
calendar
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< July 2017 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM