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  • 2009.02.19 Thursday
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青春の日々

思い出の試合◆ 2003.11.2 有明コロシアム
 グレート・サスケvsスペル・デルフィン

みちのくプロレスが旗揚げしてちょうど1年くらい経った頃、プロレス観戦仲間のM君と「一度みちのくを見に東北へ行こう」という話になった。
当時はみちプロが東京で興行を打つことはほとんどなく、唯一行われた後楽園大会(プロモーターが売上金を持ち逃げした伝説の大会)はチケットが買えなかったため、では“密行”するか、ということになったのだ。
金はないが時間だけは山ほどあった十八歳の春のことだ。
M君と私は新宿の金券ショップで「青春18きっぷ」を二人で購入し、それを分け合って上野から東北方面へ向かう鈍行を乗り継いでいった。
宇都宮で乗り換え、黒磯で乗り換え、郡山で乗り換え、もう名前も忘れた福島県内の小さな駅で我々は下車した。
新宿を出たのは朝の9時ごろだったにもかかわらず、着いた頃はもう夕方近かった。
その駅で電車を降りたのはあか抜けない地元の中高生と大きな荷物を背負ったバアさんばかりで、我々はあからさまに異分子だった。
「なあM、本当にここの駅でいいのかよ」
Mも言われて困ったに違いない。
何しろ彼が頼った情報源は「週刊プロレス」の「観戦ガイド」というページに書かれていた、

「みちのく福島大会 3/27 ○○町民体育館 ・・・磐越西線●●駅から徒歩15分」

の一行だけであったのだから。

我々は駅のそばの小さな民宿を見つけ、山に囲まれた静かな田舎道をMと二人で15分ほど歩くと、小さな体育館の入り口に「みちのくプロレス会場」という看板が出ていた。
そしてその看板の近くで、子供たちに囲まれているスーツ姿のマスクマンがいた。
子供たちは「ねーねーなんでマスクかぶってるのぉ?」などと聞きながらそのマスクマンをベタベタ触ったり押したりしている。
マスクマンは子供たちとじゃれ合いながら「君はどっから来たの?○○町?あーそう」「君はどっから?××町?え、そりゃ遠くからありがとうね」と声をかけていたが、そばに我々が立っていることに気が付くと「あ、サインですか。しましょうか?」と声をかけてきた。
「どこから来たんですか?」
「東京です」
「え、またまたあ。○○町あたりですか?」
「いや、本当に東京から来ました。みちのくプロレスを見に」
「やだなあ、あーわかった、スキーのついででしょ?××スキー場に寄った帰り道とか」
のちにUFOがどうだとか、予言がどうだとか、そういうことを言い出した彼と、この珍妙な受け答えをしていた彼の姿は私の中でまったくつながっている。
この日、彼はメインイベントに出場すると自分たちは東北の町や村を回っている、東北にプロレスを、ルチャを根付かせたい、どうか応援してください、ということをマイクで切々と語った。
まるで選挙演説だな、と思ったがまさかその10年後に本当に選挙に出るとはその時は思いもしなかった。
そして来月東京でJ-CUPというジュニアの大会があり、自分も出る、みちのくプロレスのために絶対勝ちます!と力強く語った。
誰かが「いいぞーサスケー」というとそちらを向いて「オーケー、ありがとう」、「応援してるぞー」といえば「オーケー、ありがとう」と律儀に返答した。
私が「ライガーに勝て!」と声をかけると私の方を向いて「オーケーわかった、ありがとう」と手を上げた。
とはいえ私はこの東北の気のいいアンちゃんがあの獣神サンダーライガーに勝つとは夢の夢にも思っていなかった。
だからこの1ヵ月後、両国国技館でこのアンちゃんが本当にライガーに勝ってしまったのを目の前で見たとき、目頭が熱くなるのを自覚しながら奇跡とはこういうことをいうのかもしれない、と本当に思った。
あれが、すべての始まりだった。

それから今に至るまで、何回東北へ足を運んだだろう。

大仁田厚との東北初の電流爆破マッチ。
大仁田に触発されたのか何なのか、引退するとかしないとか言ってたっけ。

ふく面ワールドリーグ戦、激勝したデルフィン戦。
「おまえらになー、見せてやるよ。こんな東北のちっぽけな小僧でもよ、世界一になれるってことをよ」という試合後のマイクに本気で泣いてた人がいたっけ。

真夏のニューワールド仙台。
会場まで行ったらサスケが欠場と聞いてガックリしたっけ。

春の秋田テルサ。
サスケを応援してたら海援隊がすぐそばまでやってきて怖かったなあ。

秋、会津若松の小さな会場。
ニューヨークに行ってたはずのTAKAみちのくが緊急参戦してきて興奮したなあ。


自分の青春がどこにあったかと聞かれてもすぐにはわからない。
けど、少なくとも何かが東北にはあった気がする。
その何かは、99年1月のデルフィンらの大量離脱で霧散した。
もう私の愛したみちのくプロレスは戻ってこない、私の青春はこれで終わった。
あの時は本気でそう思った。

だから、2003年秋、みちのくプロレス10周年記念大会でサスケとデルフィンを戦わせたいという新崎人生の考えは、あまりに突拍子もない言動に思えた。
ファンから見てそう思うくらいだから、選手は言わずもがなだっただろう。
しかし、人生は嫌悪感を示したデルフィンを説得するため大阪までたびたび出向き、リング外のみならずリング上でも頭を下げ続け、最後は土下座までしてデルフィンに「わかった、やるから頭を上げろ」と言わせた。
正直、土下座はあざといと思った。
だがあざといのを承知であそこまでした、人生のサスケvsデルフィンに対する思いはこちらを圧倒した。
デルフィンからはかろうじてOKをとったものの、今度はサスケが拒否反応を示した。
すると人生は仙台の観客の前で、過去の思い出話をうまく織り交ぜながらサスケに記念大会でデルフィンと戦う意味を説いた。
それでも首をタテに振らないサスケ。
すると、仙台の会場にいた観客がみな直接サスケを説得し始め、ついにはサスケも折れた。
一人ならともかく、何十人の観客がみなでサスケを説得したのだ。
プロレスは本当に、“ガチンコの奇跡”で出来ているのだとつくづく思わされた。


2003年11月2日、有明コロシアムのリングサイドで私はこの試合を見た。
だけど試合内容はまるで覚えていない。
覚えているのは、もう絶対みちのくの会場で聞くことはありえないと思っていたスペル・デルフィンのテーマ曲が流れて、一夜限りの復活を果たした篠塚誠一郎リングアナが
10年前と同じように「セニョ〜ルペルフェクト、スペル、デルフィーン」と呼び込んだ時に、ボロボロ涙が出てきて止まらなかったことだけで。
プロレスには、いや、人生にはこんなことがあるんだと、教えられた一戦だった。

もしいつか私が年老いて、もう余命いくばくもなく、病院のベッドで今わの際に一試合だけプロレスの試合をビデオで見せてもらえるとしたら、迷わずこの試合を見せてもらうだろう。
これから何十年たち、その間どこでどんな試合があっても、きっとこの試合を見たいと思うことだろう。

サスケが提唱した、みちのく50年計画が完遂するのは2043年。
72歳になったザ・グレート・サスケがリングに上がるのを、68歳になった私はリングサイドで見ることができるだろうか。
そのとき私は覚えているだろうか。
初めて東北に行った日のことを。
初めてサスケと話した時のことを。

忘れていたら、誰か流してくれないか。
あの「みちのくプロレスのテーマ」を。


君が人生の時  〜S・ウィリアムスvs小橋健太〜

管理人が思い出の試合を独り語りするシリーズ(1)

1994・9・3 日本武道館

【三冠ヘビー級選手権試合】
スティーブ・ウィリアムスvs小橋健太


当時全日本は三沢の絶頂期で、92年8月にハンセンから三冠を奪取した三沢は川田、田上、ハンセン、ゴディ、ウィリアムスらを防衛戦に迎えながらことごとくこれらを破り、特に川田に関しては92年10月の初対決で完勝、93年7月の防衛線ではタイガードライバー'91、さらには川田がチャンピオン・カーニバルを制した直後の94年6月の対決では戦慄の投げっぱなしジャーマンで三度撃破。
もう全日本内で三沢を倒せる者はいないんじゃないか、という雰囲気すら出てきた中で挑戦してきたウィリアムスに垂直落下式の殺人バックドロップを3度見舞われついに三沢は2年にわたって保持した三冠王座から陥落する。
後にエプロンから場外への断崖式タイガース―プレックスにまで至る、殺人的ともいえる危険度の高い技が平気で飛び交う、いわゆる「四天王プロレス」の幕開けになった年だった。

そのウィリアムスの初防衛戦の相手がデビュー6年目の小橋。
前年、豊橋で行われた両者による三冠挑戦者決定戦ではウィリアムスがかつて谷津嘉章の首を“破壊”して以来封印していた殺人バックドロップを久々に公開、通常のプロレスの範疇を超えた技を食らいながら夢遊病者のようにロープにしがみついてまで試合を続行しようとした小橋の闘志が今なお語られる、珠玉の名勝負となっている。
年があけた94年のチャンピオン・カーニバルでは公式戦最終試合で両者が激突、勝った方が決勝戦進出という試合でまたしても激戦の末、辛くもウィリアムスが勝利を収めた。
しかしこの2回の対戦内容はほぼ互角の内容であり、もはや小橋はウィリアムスと完全に肩を並べたことが誰の目にも明白となった。
次こそもう小橋が勝つだろう、そんな空気が生まれていた中の両者の三冠を賭けての激突。
そして小橋は、この試合が初の三冠挑戦であった。

この頃、私は全日本の武道館大会をほぼ毎回欠かさず見に行っていたのだが、この試合に限って会場で見ていない。
そんな試合をなぜ真っ先にあげるのかというと、見に行けたのに行かなかったことを未だに後悔しているからである。

当時私には好意を寄せている子がいた。
バイト先にいた同い年の、ソバージュヘアがよく似合う大人っぽい子だった。
何人かで遊ぶ友人グループの一人に過ぎなかった彼女を、本当はさして興味もなかった映画に誘ったのは私だ。
そうして二人で会う機会が多くなっていったものの、明確な恋人と呼べるような関係でもなかった。
思えばちょうど「友達以上恋人未満」という言葉が生まれた頃だった。

その彼女から「友達と香港に旅行に行くので、帰ってくる日に成田空港に迎えに来てほしい」と言われたのは8月下旬だった。
二つ返事で了解したものの、あとになってその日が当の小橋の三冠戦の日であることに気がついた。試合のチケットは買っていなかった。
前年の挑戦者決定戦の死闘が頭にあったのでなんとなく凄い試合になりそうだと後ろ髪を引かれながら、9月4日、私は日本武道館ではなく成田空港へ向かった。
空港で彼女を待ちつつ、今頃武道館では第一試合だな、そんなことばかり考えていた。
会っている間も、常に武道館のことが頭から離れなかった。


翌日深夜、試合をテレビで見た。
小橋とウィリアムスはどちらかが見たことのない技を出せば、もう片方も見たことのない技を出した。
垂直落下式ブレーンバスター。
雪崩式のフロントスープレックス。
そしてデンジャラス・バックドロップ。
極限まで肉体を酷使する戦い。
一年前と同様、両ヒザをついてセカンドロープに手をかけながらなんとか立ち上がろうとする小橋。
出せる限りの声を出して小橋コールをしたかった。
でも今いるのは武道館ではなく自分の部屋。
今見ているのはテレビ画面。

画面から聞こえてくる、すりきれる実況の声。
すりきれない客席からの叫び。
ここまでやるのかという興奮。
どこまで行くのかという不安。
なぜ俺は会場にいなかったという後悔。
それらすべてが混在した、わけのわからない激情に突き動かされてテレビを見ながらひどく動揺し、混乱していた。
20分を超えるとロングマッチといわれた時代に、小橋とウィリアムスが決着を要した時間は41分。
異常だった。
試合をした小橋とウィリアムスも、見た後の自分の精神状態も。
これより後にも先にも、プロレスに関して見に行かなかったことをここまで後悔した試合はない。これからもきっとないだろう。



その後小橋はノアで絶対王者と呼ばれるまでの地位を築くが、2006年7月に腎臓ガンであることが判明する。
腎臓摘出手術のあと、腎不全の恐怖、死の恐怖、人生そのものであるプロレスを取り上げられる恐怖、臓器摘出から来るすさまじい倦怠感と闘いながら、2007年12月、小橋はリングに帰ってきた。94年に27歳だった小橋は40歳になっていた。

ウィリアムスはいくつかのトラブルを繰り返しながら全日本に参戦し続けたが、レスラーとしての力量は徐々に落ちていった。
2004年に咽頭ガンであることが判明し、声帯を全摘出する手術を行う。
療養を重ねながら時折リングに上がっているということである。
小橋とウィリアムスの試合は、まだ続いている。


で、その子とそれからどうしたかって?
上手くいくわけないじゃない。
きっと若すぎたんだろう。
その頃よく聴いていた浜田省吾の『君が人生の時』を聴くと、この時のことを思い出す。
けれど、今この歌を聴くと、まるで小橋のことを歌っているみたいな、そんな気がしてしょうがない。

 激しく寄せては引いてゆく波よ
 時は無口な旅人 夢は欠けてゆく
 喜び悲しみ 今日も つづれ織りながら
 明日へと心をつなぎ ひたすら生きてくだけ
 たとえ それが思い通りに いかないとしても
 
 Time of your life
 抱き締めるがいい
 ただ ひとつの 君が人生の時



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